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第48回教会修養会 開会礼拝
「助け合う手に御力が宿る教会」

コリントの信徒への手紙二4章16~18節

矢澤美佐子 副牧師

2025年11月3日

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 私たちが、教会に集っているということは、「目に見えている世界が、全てではない」ということを知っているからです。

 「自分を超える大きな力」が、この世界に、確かに働いているということを知っています。

 私たちの命を支えている見えない世界の重要性、神様の存在を信じています。

 けれど、この「見えない世界の重要性」を、「見えない恵み」を、人に伝え、伝道していく、と言うことは、容易なことではありません。皆さま、きっと苦労しておられることと思います。

 「どうすれば、この福音を人に伝えられるのだろう?」 「どうすれば、神さまの愛を受けとめてもらえるのかしら?」 この問いの前で、立ちすくんでしまうことが、あるでしょう。

 しかし、神さまは、私たちのその思いをよくご存じです。  今朝――この修養会を通して――主は、私たちに「伝道の幻(まぼろし)」を見せてくださろうとしておられます。


 私は、神様の存在を、「手」を例にして、伝えることがあります。

 皆さん、ちょっと手を開いて、眺めてみてください。

 5本の指と、手のひらに分かれていますね。5本の指は、それぞれ自由に動きます。曲げたり伸ばしたり、物をつかんだり。日常生活の中で、役に立つ働きをしています。動きがあって、分かりやすい存在です。けれど、手のひらはどうでしょう。指のように、活発ではありません。動きがなく、何の働きをするのか、すぐにはわかりません。静かで、目立たない存在です。

 けれど、よく見てください。指は、手のひらによって腕につながれています。そして、心臓へ、つまり生命活動の中心、命の中心へとつながっています。手のひらは、指たちの命をつなぐ、重要な働きをしているんです。

 この手の平は、「見えない世界」神様の存在と考えてみましょう

 そして、指たちは、見える世界で、動き回る私たちです。教会生活をする私たちです。私たちは、手の平という見えない神様に支えられ、命が与えられ、自由に動き、働くことができています。


 見えない世界の重要性が、とてもよく分かるのではないでしょうか。

 目には見えない「命の大本」、神様とつながることで、目に見えるこの世界は、存在できているのです。指が、どんなに器用に働いても、手のひらに結ばれていなければ、命は流れません。伝道できる力も、信仰も、努力しようと思う気持ちも、神様から与えられ、御手に支えられているからです。決して、自分の力ではありません。


 やがて、指が、思うように動かない時が、来るかも知れません。身体が弱り、出来ることが少なくなる時が来るでしょう。

 けれど、パウロは言います。

「私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々、新たにされていきます」

 外なる人。つまり、私たちの肉体、社会的な立場、目に見える部分は、年と共に、弱くなっていきます。若くても、病のために、動けなくなることもあります。 しかし、内なる人。つまり、神様に結ばれた魂は、信仰は、年をとっても、身体が弱くなっても、日々、新しくされていくのです。

 なぜなら、神様から「みなぎる命」が、今も、流れ続けているからです。


 もし私たちの人生の意味が、「何かを成し遂げること」や「人より上手くすること」だけにあるとしたら、動けなくなった人や、誰かの助けがなくては生きてはいけなくなった時、人生は、意味を失ってしまうでしょう。 けれども、聖書はそうは語りません。 私たちの人生は、私たちが神を表すために、自分の力で何とかするのではなく、

 神様が、私たちの人生を通して、神ご自身を現してくださる。

 私たちの人生そのものが、「神の働き場」なのです。

 それが私たち、一人ひとりの「伝道物語」となっていきます。


 だからこそ、私たちが、教会が経験する、苦しみ、悲しみも、無駄ではありません。困難な時代でも、全ての一歩、一歩に意味があります。なぜなら、そこに神が、ご自身を現しておられるからです。私たちは、それを、信じて進みます。


 コロナの時代もありました。

 神様は、あの時間を通して、私たちに「遠回りすることの大切さ」も教えてくださいました。すぐに結果を求めず、仲間のために、足並みを揃えることを教えてくださいます。その中でしか見えてこない景色が、確かにありました。

 そして、そこにも、神が、ご自身を現しておられたのです。回り道でしか出会えない「新しい自分」がいます。「教会」でしか学べない、大切なことがあります。


 神さまが大切に見ておられるのは、「どれほど上手くいったか」ではなく、「どれほど委ねたか」。

「どれほど、神の偉大な御力を信じたか」「信じ、ゆだねたか」なのです。だからこそ、私たちの内なる人は、確かに、強くされていくのです。


 日々の迷いや葛藤に、足もとが揺らぎそうになることがあるかもしれません。

 けれど、信仰とは、見えるものではなく、見えない神の御力、人間を超える大きな力を信じることです。

 神様を信じて生きるとは、「何もかも正しく行えるようになる」、ということではなく、この世界の中で悩み、傷つきながらも、神様の御心を求めて、神様の御言葉に生きようとすること。

 神の正しさに、生きようとすることです。 この世の苦しみ、痛み、悲しみ、罪を見ないふりをせず、自分にできる小さなこと、声をかけること、思いやりを持つこと、誰かの苦しみに寄り添うことを続けていくことなのです。


 信仰とは、どれだけ高いところに登って、清らかに生きることができるか、ではありません。

 ひび割れた道に咲く、野の花のように、傷ついたこの世界に、神様の愛を咲かせ、愛で包むように、生きていくことなのです。人々の救いのために生きていきたいと思います。


 秋の夜空には、三日月が見えます。私たち、人の目には、欠けて見えるけれど、本当はきれいに丸く、輝いているのです。神様は、私たち、教会の素晴らしさを知っておられます。


 教会は、一人が倒れそうな時、もう一人が手を差し伸べます。

 その小さな手と手が重なり合うところに、主の御力が働き、教会は、大きく、大きく動き出します。

 そして、私たちが、互いに助け合う姿を通して、人々は「見えない神の愛」を見ることができるのです。

 金沢教会、内灘教会、ここは、神の愛が見える場所、「幻」が見える場所です。

 救いの光は、ここに、ともり続けています。

 そして、これからも、この救いの光を、共に伝えて参りましょう。

石川県金沢市柿木畠5番2号

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